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一番街の歴史

『中野北口一番街』の誕生秘話。
はじまりは月一回の飲み会だった!?


清水 「ここにお集まり頂いた方々は、どなたもご本人もしくは先代が中野北口一番街で古くからご商売をされているので、まずはこの商店街の歴史とその成り立ちを探って参りたいと思います」
勝間田 「僕が『中野北口一番街』で商売をはじめたのは、昭和41年からですからその前のことはすべて聞いた話なのであまり正確なことはいえませんが。福田さんの先代が、すでに商売をはじめていらっしゃいましてね。その頃はまだ、商店会や商店会費みたいのものもなくて、箱を作って、そこにみんなで千円ずつ集めていました。所謂、無尽のようなものですかね。いまは、なくなってしまったうなぎ屋さんの『美登里』の二階で月に一回集まって6?7人くらいの店主で飲み会みたいなものでしたね」
佐藤 「うちが『テーラースコット』を始めたのは昭和30年です。その頃は、まだ『中野北口一番街』という名前もなく、店舗数も13軒しかありませんでした。空き家や倉庫ばかりの寂しい街でしたね」
杉浦 「時代は定かでは無いですが、昭和30年代に店舗数が20件になった時に『五十番』の高橋さんが『中野北口一番街』名付けたと聞いています」
清水 「そうすると『中野北口一番街』が成立したのは、昭和30年代であることは間違いないですね」
杉浦 「『中野北口一番街』として、中野区商店街連合会に届け出を出して正式に認められたのは昭和57年になりますが、商店街というカタチができたのは昭和30年の初頭ということでしょうね」
佐藤 「うちの亡くなった主人の書いたものによると、福徳信用組合の日掛け集金が縁となって、月に一度、『美登里』の2階で無尽のような集まりをするようになったとか」
杉浦 「昔は、商店会費とかじゃなくてみんな無尽だったんですよ。何かあるとそこからお金を借りたり、助け合ったりしていた」
佐藤 「その無尽のようなものから発展して生まれた『中野北口一番街』ですが、その『一番街』という名前は、当時はなかなか斬新だったようで、赤羽の『赤羽一番街』も新宿の『歌舞伎町一番街』も我々のあとに出来たと聞いています」
勝間田 「中野の二番街とか三番街とかも、もともと無くて、一番街が出来てから名付けられたんですよね」
杉浦 「昭和62年に商店街の道をカラー舗装にしたのも中野で一番なら、平成21年に街路灯をLEDに取り替えたのも一番。私は、現会長として”なんでも一番”を目指していますが、その名前からして先進的で一番だったんだな」
福田 「もともとは、いまの『中野サンモール商店会』の前身である『中野北口美観商店会』に所属していて、そこから独立して『中野北口一番街商店会』になったわけですが、そこには、私の先代や昔からこの地で商売されていた方々の様々な思いや尽力があったのだと感じます」

昔の『中野北口一番街』と
その周辺の様子


清水 「ところで『中野北口一番街』やその周辺は、もともとどんなところだったんでしょうね」
杉浦 「戦後、北口駅前は闇市のような状態だったようです。『かさい』と『同和不動産』の間の小道に、いまもその名残りを感じます」
勝間田 「うちの店のあたりは、昔、馬小屋だったんですよ」
杉浦 「日本通運の馬小屋ですね。昭和のはじめ頃までは、日本で一番馬を飼っていたのは日本通運だったらしいですね。まだ荷馬車馬が荷物を運んでいた時代ですよ」
福田 「うちの親父は、昔近くにあった神谷瓦店で瓦の運搬の仕事していたんですが、当時は、八王子まで荷馬車で瓦を運んでいたということです」
清水 「ふれあいロードの『明白』辺りに、昔、『打越湯』という銭湯があったと思いますけど」
福田 「仕事が終わってから、良く浸かりに行ったもんですよ」
杉浦 「俺も入ったことがあるんだけど、打越湯っていつ頃まであったんだっけ」
勝間田 「俺もずっと通っていたんだよ。戦前から昭和40年代の後半まであったんじゃないですかね。みんなに親しまれていた銭湯だったけど、無くなって焼き肉屋になっちゃったんだよね」
勝間田 「当時、家に風呂がなかったから無くなって大変だったんだよ」
清水 「線路沿いに花木温泉っていうのもありましたよね」
勝間田 「そうそう、雑木林の中にあってね。これが温泉かよって感じだったけど」
佐藤 「そこなら、私も行ったことあります。あと。ライフの脇の細い道は、昔、小川でしたよね」
勝間田 「いまは、土管を埋めて小道になっていますが、地下で水は流れていますよ」
福田 「ライフは資材置き場だったでしょ」
清水 「そうですね。子供の頃、よくあそこで遊びましたよ」
福田 「俺もよく、遊んだな」

昔も今も中野は文化の発進地

清水 「サンモール商店街の駅寄り、コージーコーナーの角をちょっと入った場所に、平成16年まで『中野武蔵ホール』という映画館がありました」
福田 「そこは、もともと『中野大映』だったんじゃないかな」
勝間田 「昭和41年に『中野ブロードウェイ』ができるまでは、その場所に『中野内外劇場』というのもありましたね」
勝間田 「劇場があったことなんては覚えていないなあ」
福田 「劇場というより、当時で言うところのピンク映画専門の映画館ですが」
佐藤 「中野には映画館がたくさんあったんですね」
杉浦 「南口には、駅の正面には『中野名画座』があって、その裏手には『中野東映』もあった、中野通りの五差路には、『光座』というピンク映画専門の映画館がありましたね。『光座』だけは平成2年までやっていたね」
清水 「中野に映画館はひとつも無くなってしまったけれど、昔はずいぶんとたくさんあったんですよね」
佐藤 「中野は昔から、とても文化的な街として親しまれていたんだと感じます」

中野の歴史を知り
街に対する愛着を持つ


清水 「もっとずっと時代を遡ると、いまのサンプラザの辺りに、徳川第5代将軍綱吉の広大な犬屋敷だったと伝えられています」
勝間田 「あの辺の昔の町名は『囲町(かこいちょう)』と言って、犬屋敷の別名で『お囲い御用屋敷』に由来しているからなんですよ」
杉浦 「昔の町名は、名前に由来に意味があってよかったね。『中野北口一番街』は中野5丁目なんだけど、昔は、『打越町』でしょ。『北野神社』
は、かつて『打越神社』と呼ばれていたんだけど、この辺りは、南の方角にある桃園川に対して小高い台地となっているんです。北の方に向かうためには、その台地を”打ち越えて”行かなければならなかったから『打越』になったという話しを何かで読んだ記憶がある」
清水 「いまでも町会の名前は、『中野打越町会』で打越の名前が使われ続けていますね。いまの若い人は、なんで打越町というのか名前の由来を知らない人も多いんじゃないですかね」
勝間田 「氷川神社例大祭では、打越町会からお神輿が出るけど、『中野一番街商店会』も積極的に参加し続けているよね」
佐藤 「いまは、お祭りのときにしか打越の文字を見ることが無くなってしまったけれど、そういう古くからの名前はその意味とともにいつまでも後世に残していって欲しいですね」
清水 「そして、平成24年に開設された『中野四季の森公園』は、明治期には陸軍関係の施設で、陸軍中野学校を経て、戦後は警察庁警察大学校と警視庁警察学校でしたね」
福田 「平成13年まで、警察庁警察大学校や警視庁警察学校等として使用されていたわけですが、その頃までは、飲み屋街はとくに警察官関係者のお客さんは多かったなぁ」
勝間田 「佐藤さんのお父さん(『テーラースコット』初代店主)は、警察官の服を作っていたりもしましたよね」
佐藤 「宮内庁とも取引きがあったり、スカルノ大統領とも付き合いがあったり、国際的に活躍していた人でもありました」
勝間田 「『中野北口一番街』の創成期を支えた重要な人物のひとりですね」
杉浦 「とにかく頑固な人だったなぁ。俺も偏屈だから、随分衝突もしたのを覚えているよ。それも、いまではいい思い出です」

「みんなで楽しもう」という
雰囲気が商店会にあった


清水 「昔は、商店会で旅行とかゴルフコンペとかによく行ってましよね」
勝間田 「杉浦さんの呼びかけで『中野一番街商店会ゴルフクラブ』も作ったりしました。いまではすっかり活動しなくなってしまいましたが」
杉浦 「バス一台をチャーターして、ゴルフをやらない女性中心の観光組とゴルフ組が一緒になって富士平原とかによく行きましたね。先にゴルフ組をゴルフ場で降ろして、ゴルフが終わった頃に迎えに来てもらって観光組と合流してりしてね」
佐藤 「昭和40年代のはじめ頃から毎年のようにみんなで旅行に行っていましたね。うちの主人は、ゴルフをやらなかったので観光組の万年幹事みたいな存在でしたよ」
杉浦 「昭和60年代までは、みんなでゴルフや旅行に出かけていたと思います」
佐藤 「埼玉の森林公園へサイクリングに行ったり、木更津に潮干狩りに行ったり、毎年みんなであちこちに出かけていました。業種があまり被らなかったからですかね。和気あいあいとしていましたよね」
杉浦 「そういえば、街路灯の会社が主催した中野区の商店街対抗のゴルフコンペで『中野北口一番街商店会』が優勝したこともありましたっけ」

商店街はなぜ衰退したいのか?
次世代に伝えたいこと


清水 「昔の商店会は、みんなで楽しもうという活気があっていいですね。夢のある良い時代です。昔は助成金なんかなくても活力があったのに、いまは恵まれているはずなのに援助があってもなかなか活性化しません。なぜなんでしょうか?」
福田 「ひとつは、昭和48年に立法された『大店法』による大型店に対する規制緩和が大きいのではないでしょうか」
勝間田 「それによって日本全国の商店街にスーパーマーケットがばんばんできましたからね」
福田 「その影響で小売店の経営は困難になって商店街としての活力を失っていったわけです」
勝間田 「で、スーパーマーケットは、儲からないとわかるとすぐに撤退する。商店街を衰退させたままで。挙句の果ては、シャッター通りですよ」
佐藤 「ここに『ライフ』ができるとわかった時も戦々恐々としていましたでしょ」
勝間田 「反対意見もありましたけど、うちらの場合は、『ライフ』が出来て人通りが多くなった。結果的によくなったわけですが、稀なケースでしょう」
杉浦 「『中野北口一番街』は、この辺りの商店街では一番テナントが少ないじゃないかな。また一番ですが」
佐藤 「最近では、大きな商店街でもほとんどに店が貸していますね。『中野北口一番街』は、ほんとみなさんが苦労して頑張っていると思います」
福田 「そういう意味では、昔ながらの商店街の心意気が残っている希少な街なんじゃないかな」
勝間田 「とにかく昔の人はエネルギーがあったよね。いまの人は自分のことで精いっぱいで商店街全体のことまでは考えられない」
福田 「いまはインターネットの時代だからね。人とのリアルな触れ合いを大切にしなくなった。でも、もしかしたら、だからこそ商店街が生き残るチャンスがあるのかもしれません。高齢化も進んで、昔ながらのご用聞きスタイルの商売が復活していると聞きます」
清水 「その”昔ながら”というところにヒントがあるのかも知れませんね」
杉浦 「助成金に頼らずに知恵を出し合いながら、みんなで楽しくてやってきたことをこれから次世代に伝えて行きたいですね」






中野北口一番街商店会のできごと

●昭和30年代
・13件の店舗数だった。

・その後、福徳信用組合の日掛集金が縁となり、月に一度、うなぎ店『美登里』の北村氏宅の2階で無尽の集まりを行うようになる。

・20店舗になるころ、商店街の名称を付けることになる。色々な名称が持ち寄られるが、中華料理店『五十番』の高橋氏が提案した「中野北口一番街」に決定。

・当時は独立した商店会ではなく、中野北口美観商店会(現・中野サンモール商店会)に所属していた。
※『テーラースコット』佐藤肇一氏の原稿より抜粋。

◎昭和41年
・中野サンプラザが開業。

◎昭和51年
・初の「中野区まつり」が開催される。

・日本電信電話公社中野ビル(現:NTTドコモ中野ビル)竣工。

●昭和52年
・3月末に、中野駅前広場の整備が終わる。商店会ではセール、装飾などを行う。

・4月24日、埼玉県の森林公園(サイクリングコース)へ旅行。

・10月18日~20日、鳥取、出雲大社へ旅行。
※この頃は毎年、商店会員で行く旅行が企画されていた。

◎ボブ・マーリーが中野サンプラザで来日公演を行う。

●昭和55年
・アーチ、街路灯完成。街を桜の花で飾り、通行する人にタコ焼き、綿菓子などをふるまう。中野区長も式典に訪れる。

●昭和56年
・7月15日、隅田川にて屋形船夕涼みを行う。

●昭和57年
・6月1日、「中野北口一番街商店会」として、中野区商店街連合会へ届け出を出す。

◎昭和57年
・新東京百景に新井薬師梅照院と哲学堂が選ばれる

◎昭和58年
・住民運動の影響もあり「中野刑務所」撤廃。・人口密度が豊島区を抜き、東京23区でトップとなる。

●昭和60年
・カラータイル舗装の陳情書を7月に区に提出。初めは自費整備の許可を求めた。

・朝日新聞社主催の第25回朝日アマ囲碁十傑戦東京大会が3月に開催され、一番街の囲碁名人・宇田川光一氏(『わしや』)が3位に入賞する。

・3月8日、小旅行バスツアー部が発足。

・5月、青年部の初仕事である街路灯の飾り付けが行われる。各街路灯に6匹の鯉が飾られた。

・5月27日、『わしや』裏で、道路敷石見本が展示される。 

・6月6日、愛知県・賀茂の・6月6日愛知県・賀茂の菖蒲園と御前崎海岸へのバスツアーが行われる。

・つくば万博へのバスツアーが行われる。

・8月25日、深川のハゼ天ぷら船に乗る、夏の家族旅行が行われる。

・街燈の装いが新しくベージュ系の色になる(費用総額35万円)。

・青年部の案で、祝祭日に国旗掲揚される。  

●昭和62年
・1月19日、カラー舗装が完成。サンプラザで記念式典が行われる。商店会がカラー舗装をしたのは中野区で初めてであった。『魚清』の前で、ジャズ演奏会を開催する。「ちょっといい一番街」というフレーズもカラー舗装に合わせて『居酒屋はち』の杉浦氏が作った。

◎第1回「中野通り桜まつり」開催。 

●平成7年
・12月20日~翌年の1月8日まで、イルミネーションで街のライトアップが行われた。1本の木に750個の電球を取り付けた。

●平成8年
・4月24日15時半ごろ、『いさご亭』店頭に設置してあった公衆電話が煙のごとく消える。

・4月24日深夜、『国際センター』の窓ガラスを割り、侵入した人物がいるのをセコムが通報、南口交番より警察官が急行して逮捕。犯人は前科20犯、出所したばかりであった。

●平成9年
・商店街の15周年記念伊豆旅行が7月6日~7日に行われる。

●平成10年
・『ライフ中野駅前店』開店

・街路灯に桜の造花を飾る(※その後の年も継続して行われる)。

・案内版の改装。一番街使用券の配布「今回限り」。

・駐輪対策と街の美化のため、約2ヶ月間、路上に鉢植え、縁台を設置。

◎平成11年
・桜並木植樹の許可が下りる。

◎平成12年
・桜の植樹が行われる。

●平成16年
・5月街路灯に鯉のぼりの飾り付け(※その後の年も継続して行われる)。

・6月11日付けで、7月~8月の感謝セールと、街路灯の改修事業が、東京都及び中野区の補助金交付対象事業「元気出せ・商店街」の決定を受ける。

・商店会が同好会的に発足してから60有余年の大感謝祭を7月~8月に開催。抽選券の発行ほか、各店ごとのサービスが行われる。抽選の1等は液晶テレビ5名(ナショナルTH-14LA20)、2等はデジタルカメラ10名(ニコンcoolpix4100)、3等は1000円100名。

・歳暮感謝セール(「元気出せ・商店街」)※同時開催で中野区商店街連合会「区内共通商品券歳末売り出し」5000円券×20本=10万円(中野区商店街連合会提供)

・青年部主催の、会員、従業員、一日親睦旅行。

・中野区商店街連合会・第7ブロック開催行事参加。その他、防犯パトロール年9回。

・打越町主催、成人の日餅つき大会、春の交通安全週間、秋の交通安全週間、年末火災予防週間、防犯パトロール、氷川神社例祭、中野警察、中野消防署イベント等の積極的な参加がこのころ始まる。

●平成18年
・第20回中野通り桜まつり4月6日~8日に、初めて駅前ロータリーに一番街会員全店の提灯を飾る。 

・4月20日ごろ~5月5日、一番街商店会の名称印刷入り鯉のぼりを配布(※中野区の助成金付)(※その後の年も継続して行われる)。

・歳末感謝セール(恒例?)。三角くじをひくと、抽選で3000円~5000円の金券が当たる。協賛店(スロットダイワ、国際センター)ハンカチ2000枚作成(※中野区の助成金付き)。

・中野区商店街加入促進委員および、高齢者しんせつ相談員に、一番街商店会の3名が活動を行う。内容は、新規会員の獲得および、商店街内利用客のため、案内、施設の安全確認、補強、特に環境の整備(高齢者社会に向け、中高年者が商店街に来訪しやすい環境を目指す)等。

●平成21年
・街路灯の電灯をLEDに替える。中野区の商店会では一番早かった。

◎平成23年
・中野駅周辺の工事が始まる。

◎平成24年
・旧警察大学校等跡地地区に中野四季の都市ができる。敷地内に、中野四季の森公園、業務・商業ビル「中野セントラルパーク」が完成。・中野駅北口広場東西連絡路が完成。

●平成25年
・中野駅周辺商店会が主催、中野区「なかの里・まち連携事業」と連携したイベント『お座敷列車"華"号で行く甲州市えんざん桃源郷150名様ご招待』が行われる。主催商店会は、中野北口一番街商店会、中野南口駅前商店街、サンロード中野桃商会、中野サンモール商店街振興組合、中野ブロードウェイ商店街振興組合。

・平成25年度『地域商店街活性化事業』として一番街商店会の事業『東北復興支援事業 新井薬師十二神将開眼記念企画“一番街のちょっといい一品』が中小企業庁に採択される。内容は、①中野北口一番街商店会の広報誌発刊、②商店街の入口に『新井薬師梅照院参詣道入口』と記した看板の設置、③商店街に『新井薬師参詣道』と記した提灯の設置、④商店街の飲食店にて、東北産品を使ったオリジナル料理の提供(サービス価格)。平成25年8月から平成26年1月まで行われる。

◎平成25年
・中野四季の都市に明治大学、帝京平成大学が開校。